Friday, September 27, 2013

当たり前に感謝する

今ニューヨークのラグアディア空港行きの機内で原稿を書き始めています。今日は2013年9月27日で、谷口雅春先生に大調和の神示が昭和6年(1931年)9月27日に天降った日でもあります。
朝9時の飛行機乗るために朝5時半ごろ自宅を出て昨日から個人的に借りたZip Car Main Street Station 近くのSobeysの駐車場に返却して、Woodbine Station まで少し歩きそこからTTCSubwayとバスを乗り継いで空港には飛行機出発2時間以上前に到着しました。
  空港では早速チェックインするためにしばらく待ってカウンターでパスポートと飛行機の予約のシートを見せたのですが、そこでESTA の申請がなされていないことが発覚し、担当者に空港内でパソコンが設置されているところを案内され必要事項を入力してクレジットカードで支払いを終わりすぐに申請が出来ました。昨日、ある信徒宅を訪問した際にESTAが必要じゃないかと聞いていたのですが、その時は出発前の諸準備があり、そこまで出来ず何かあったら空港でやるしかないと思ってました。
 また、昨年末に家族とナイアガラの滝まで日帰りした際にアメリカ側にも入国したのですが、その時にはESTAの申請が無くても入れたので、すっかり申請を忘れていました。

  そして、すぐにカウンターに戻りチェックインができ、アメリカへの入国審査、税関を過ぎて、機内に預ける荷物をターンテーブルに乗せて、保安検査場で検査を受けて無事ゲート前搭乗時間前に着きました。そして少し時間あったのでゲート前のカフェで各席に用意されているiPadを使って、マフィンとコーヒーをオーダーして朝食を楽しむことも出来ました。
  今、振り返ってみるとESTA の申請こそ余分に時間がかかりましたが、無事に飛行機に乗れて穏やかな秋晴れに空からオンタリオ湖などを眺めながら原稿を書いていると、当たり前に物事が運ぶことに心から感謝しています。
    今回ニューヨークに向かう目的は国際練成会の講師として指導にあたることです。私が担当する講話は4つで、神想観の意義説明、許しについて、大自然讃歌について、万教帰一について話します。そして、早朝行事の先導も一回担当することになっています。
  国際練成会で講話を担当するのは12年ぶりことで、200110月にニューヨークのRiverdaleで開催された国際練成会以来だったように記憶しています。もしかすると2002年の2月にハワイで国際練成会が開催されていれば、その年の夏までハワイに駐在していたので、ハワイの実相センターで開催された練成会での講話が国際練成会における前回までの講話の最後だったかもしれません。

しばらくしてウトウトしていたら、すでにニューヨークの上空で懐かしいマンハッタンの景色が眼前に広がりました。2011年の10月にRiverdaleで開催された国際練成会は9.11の同時多発直後にニューヨークで開催された練成会でした。そのときはラガーディア空港に沢山の兵士が銃をもって警備にあたっており、まさに戦争状態の感じがしましたが、今回は実に平和にニューヨークの町をみることができて、平和のありがたさをしみじみ感じるとともに、ここでも当たり前に物事が運ぶことに心から感謝したのでした。

Sunday, September 22, 2013

神様の御心を第一に生きましょう

 カナダに赴任して、一年が過ぎました。この一年間はあっという間に過ぎましたが皆様の協力のおかげでトロント教区教化部長、カナダ国駐在本部講師の任務を遂行できたと思います。ありがとうございます。
 私の記事は、どうしても今やっていることを元に書くことが多く、真理の話だけでなく近況報告について書くことがありますのでご了承願います。
  私は8月の末から9月のはじめバンクーバーに行っておりました。そして昨年も8月30日に日本からまずバンクーバーにきて9月6日にトロントに移動したことが思い出されました。バンクーバーでは今年2回目の見真会が9月7日に開催されました。準備期間が短かったことと宣伝が十分ではありませんでしたので参加者は6名でしたが、翌週に予定されていた「地球をきれいに」のイベントがキャンセルになりそうだったのが、見真会の中で取り入れることができ、無事にバンクーバー会館の周辺や隣の公園の清掃活動を行うことができました。
 そして、9月8日にバンクーバーで、9月15日はトロントでそれぞれ秋季慰霊祭が開催されましたが、生長の家には形式ないことについて話しました。日本では生長の家の先祖供養祭が神道形式で開催されているにも関わらず、神道形式は生長の家の形式ではありません。その他の国地域では、それぞれの文化に適した祭式で先祖供養祭が行われることについて話しました。そして、生長の家の儀式の基本的考え方では、儀式の心的要素は普遍であっても、形式的要素は普遍でないことについて話しました。また、供養というものは、供えて養うという意味があり、食べ物などをお供えする物施と、真理をお供えする法施とに分けられることについても話させて頂きました。
さて今、トロントでこの記事を書いておりますが、昨日の9月21日はRummage Saleがありました。当初、6月に行う予定だったRummage Saleを一旦キャンセルしたのですが、9月21日にやることになり、私も9月16日にバンをかりて6軒のお宅を訪問させて頂き荷物のピックアップを行い、前日の準備や当日の販売等を担当させて頂きました。このRummage Saleでは、芝運営委員長はじめ多くのメンバーの皆様のご協力により成功したことを心から感謝申しあげます。
私は、Rummage Saleの当日、一度に沢山のものを買って行かれたご夫婦がとても印象的でした。彼らは、本国のギアナ(Guyana)に買ったものを送ってあげるそうです。また、今年は、例年よりも価格の設定が低かったとのことですが、多くの買い物客がうきうきしながら買い物をされ、中には何度も足を運んで下さったことが大変印象的でした。
私は、このことを通してRummage Saleというのは、単なるファンドレイズではなく、物施の意義があると思いました。また買い物にこられた皆さんには、真理の書かれたTruth Of Life誌と、11月に開催する見真会、幹部研修会のチラシも一緒に配ることが出来て法施も行うことができました。さらに10月5日と1110日に行われるViolin Concert のお知らせもできました。
「心の法則」では、「与えるものは与えられる」という法則がありますが、これは黄金律として世界の宗教で、似たような表現がみられます。たとえば、キリスト教の「「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(『マタイによる福音書』712節)」や、儒教の「己の欲せざるところ、他に施すことなかれ」(『論語』巻第八衛霊公第十五 二十四)、イスラームの「自分が人から危害を受けたくなければ、誰にも危害を加えないことである。」(ムハンマドの遺言)などが挙げられます。
 つまり、私達が無我になって布施を行った際に神意が顕れ、自と他は本来一体ですので、相手に施したことが巡り巡って自分に返ってくるのです。「情けは人のためならず」という言葉にも似ています。
 さて、カナダに赴任して1年間が経ちいよいよ2年目になりましたが、今、皆さんに一番よく知っておいて頂きたいことは、神様の御心を第一に生活することの大切さです。
谷口清超先生は、『神想観はすばらしい』の中で次のように説かれています。

 心がいつも「希望」に輝いている人には、すべてのことがうまく行きます。でもその  希望が、自分のわがままや自分勝手な願いである場合は、たとい一時的にその希望が実現しても、かならずしも幸福にはなれません。それは、神の御心にかなわないことですと、不幸な運命にも結びつくからです。だから、最初の言葉は「希望」の代わりに「神の御心」と言いかえたほうがよいでしょう。
  「神の御心」はどうしたら分かるかといいますと、神に聞けば良いのです。神は、すでにあなたの中に宿る「真実のあなた」ですから、神に聞くことは難しくない。ただ毎日「聞く練習」をして行くならば、間違いなく聞けるのです。その練習が「神想観」なのであります。(『神想観はすばらしい』pp. 12-13

 このように、神想観を多くの皆さんが実践されて、まず第一に神様の御心を行じて行かれましたら、神様の造られた実相世界は、すでに完全円満の世界ですので、現象世界にも調和な世界が必ず訪れるのです。神様の御心を聞くために毎日一回は神想観を実修しましょう。ありがとうございます。

2013年9月22

生長の家トロント教区教化部長
         カナダ国駐在本部講師
           高 義晴

日本語ブログ:  http://yoshiharutaka2.blogspot.ca/

         英語ブログ: http://yoshiharutaka2.blogspot.ca/

Thursday, August 15, 2013

ご先祖様に感謝を捧げましょう

私は、このニュースレターの記事を8月15日トロント会館の火災報知器の検査の最中に書いております。このようなメンテナンスによって、私達は火事やその他の問題の心配なく使うことが出来ます。
生長の家の行事を開催するには、自分達の道場を持っているといいですね。カナダでは、これまでの先達の皆様のお陰でトロントとバンクーバーと二箇所に会館があります。5月25日にはバンクーバー会館で39周年記念式典が催され、8月25日にはトロントでは、新しい会館の15周年記念が行われます。生長の家では、このような会館は「いのちのゆには」と呼ばれています。「いのちのゆにはの神示」には次のように書かれています:

(いの)(ちの)道場(ゆには)とは(まこと)(あら)(きよ)めの(にわ)である。『(まこと)』とは『生命(せいめい)(まことの)(すがた)』のことである。(きよ)めるとは(まよ)いを(のぞ)くことである。(ひと)(かみ)()であるから、その実相(じっそう)(あら)わせば(やまい)なく、(なや)みなく、()なく、一切(いっさい)不幸(ふこう)()い。(略)
                       (昭和7年3月14日神示)

ですから、すべての迷いを取り除くことが大切になってきます。8月15日は、日本では各地で盂蘭盆供養が行われます。この盂蘭盆供養は、目連(もくれん)尊者、または目犍連(もっけんれん)と彼のお母さんの話に基づいています。目連は釈迦の十大弟子の一人として知られています。ある日目連が瞑想中に亡くなったお母さんが地獄で苦しんでいるのを見たのでした。
彼は地獄にいるお母さんを訪ねることにしました。お母さんが何も食べられませんでしたので、彼はお母さんに食べ物をあげようとするのです。しかし、お母さんが食べようとすると食べ物がすべて炎に変わってしまったのでした。そこで、目連は教えを請うために釈迦を訪ねました。そうすると釈迦は、衆僧(多くの僧侶)に食べ物を供養するよう教えました。目連が衆僧にお供えをしたとたんに、目連のお母さんが救われたのでした。そして、目連はお母さんが救われたことを大いに喜んで踊ったことから盆踊りが始まったとも言われています。
この話によって、食物をお供えして先祖供養をすることが大切であることが分かります。谷口雅春先生は、供物の大切さについて次のように書かれています。まず谷口雅春先生は、神道での供物は、神様への感謝を捧げる意義があると書かれています。そして、仏教の場合について次のように書かれています。

仏教ではそのような霊を(とむら)うために盂蘭盆会(うらぼんえ)などに施餓鬼(せがき)と称して食物を供えてから経文を読むのはそのためである。ただし霊が実際に食するものは現実の物質的食物ではない、霊界は念の世界であり、念を食物として生きているのであり、物質の供物の大小、多寡(たか)によるのではなく、供える人の念が霊界に放送され、あの人にあげたいという即ち愛念が原動力となり放送されて霊界に念で作られたお供え物となって出来上る。
(『人生を支配する先祖供養』21ページ)



盂蘭盆のもともとの意味についてWikipedia では次のように書かれています:

盂蘭盆は、サンスクリット語の「ウランバナ」の音写語で、古くは「烏藍婆拏」「烏藍婆那」と音写された[1]。「ウランバナ」は「ウド、ランブ」(ud-lamb)の意味があると言われ、これは倒懸(さかさにかかる)という意味である。

倒懸(さかさにかかる)とはどういうことでしょうか?最初私は、目連のお母さんが地獄で逆さまに吊られたと思っていたのですが、倒懸(さかさにかかる)の本当の意味を考えていたら、「迷い」という言葉が浮かんできました。多くの皆さんがご存知のように、『聖経 甘露の法雨』では、「無明(まよい)」について次のように書かれています。

無明(まよい)はあらざるものをありと想像(そうぞう)するが(ゆえ)無明(まよい)なり。
                       (『聖経 甘露の法雨』48ページ)

では、どのようにすれば、全ての無明(迷い)(倒懸(さかさにかかる)状態)を取り去ることが出来るのでしょうか? 私がこの文章の最初に引用したように「真理」を知ることが大切です。そして「真理」は「いのちのゆには」である会館で学ぶことができます。
ところで、生長の家では、京都府宇治市において毎年8月17日~19日にかけて宝蔵神社盂蘭盆供養大祭が行われます。盂蘭盆供養大祭では、本祭の他、全国流産児無縁霊供養塔供養大祭等が、総裁谷口雅宣先生ご奉祀、白鳩会総裁谷口純子先生ご臨席のもとに行われます。また、昨年からは8月16日に自然災害物故者追悼慰霊祭が執り行われるようになりました。
トロント教区とバンクーバー地区の皆さんには6月末にお知らせしましたが、皆さんはすでに宇治の盂蘭盆大祭での霊牌供養の申し込みをされておられることと思います。これらの申し込み用紙はすでに日本の宇治別格本山に送られ霊牌が用意され大祭中に招霊され聖経読誦が行われます。
宇治別格本山では、生長の家の祭員が先祖に対して、翌年の盂蘭盆供養大祭に於いて焼納されるまでの一年間で述べ約15万人によって約4,000回の聖経読誦がなされます。ですから、宇治別格本山において霊牌供養された御霊たちは、霊的な恵みとして、霊的なお供物または真理を受け取ります。ですから先祖供養をすることによって、ご先祖に対して感謝を捧げましょう。ありがとうございます。

2013年8月15

生長の家トロント教区教化部長
         カナダ国駐在本部講師
           高 義晴
日本語ブログ:  http://yoshiharutaka2.blogspot.ca/

Monday, July 22, 2013

神の子の無限の能力を発揮しましょう


私はこのニュースレターの記事を、7月9日トロントから成田に向かう飛行機の中で書き始めました。なぜなら生長の家の新しい本部である“森の中のオフィス”で開催される国際教修会に参加するだけでなく、日本語から英語、そして英語から日本語への通訳も担当することになったため、忙しくなると思ったからです。しかし、機内である程度は書けたのですが、国際教修会のことも含めたかったので、バンクーバーに戻って行事が終わった後の締め切りの前日である7月22日に書き終わろうとしています。
ところで先月のニュースレターでは、トロントからバンクーバーに向かう飛行機にほんの少しのところで乗り遅れたことを書きましたが、今回は無事に間に合いました。
しかし、自宅からトロントピアソン空港に向かう途中では、普段とは違うことが起こりました。それは、いつも乗っているTTCSubway Jane Station から終点のKipling Station まで、停電で不通になっており、代わりに私たち乗車員はシャトルバスに乗り、Jane Station からは地上を通ってKiplingに向かいました。そして、街中も途中から信号機が停電の影響で消えていました。また、Islington Stationを過ぎたところでは道路が雨で冠水して通行止めになっていました。
空港へは予定より20~30分遅れましたが、それでも、最初に一時間以上の余裕を持って空港に向かったおかげで、空港についてお土産を買い軽い食事をする時間がありました。7月9日のCBC NewsWeb Siteでは、7月8日の豪雨について、たったの2時間で降った雨は126ミリメートルに達し、トロントの7月分の平均的な降水量以上であったと報じておりました。
また、日本に到着して、一番驚いたことは、夏が始まったばかりなのに例年にない暑さで連日32~33℃の気温が続きとにかく逃げ場のない感じがしました。
一方で、途中立ち寄った広島の母の家と、“森の中のオフィス”は、自然の中にあるためいずれも涼しい心地の良い天気でした。特に“森の中のオフィス”のあるところは標高1,300メートルの高地にあるため、都内よりも涼しいとともに、自然に囲まれているためにとても心が安らぐ思いをしました。
トロントの豪雨や日本の猛暑で分かることは、この様な異常気候の原因が、人類の活動によってCO2が増えたことによる地球温暖化であることは明らかです。
このような中で、今回の国際教修会では生長の家の国際本部が東京の原宿から山梨県北杜市の八ヶ岳山麓に移転したことから、「宗教における都市と自然」と題して生長の家本部が自然の中に移転することの意義について学びました。教修会では、5人の本部講師、本部講師補とともに総裁谷口雅宣先生、白鳩会谷口純子先生が講話を担当されました。先にも書きました通り、教修会において私は、日本語から英語、英語から日本語への通訳業務の一部を担当しました。
 特に、大島達郎講師の「宗教における都市と自然 ~仏教に学ぶ~(日本の場合)」では、同講師の発表の同時通訳を行いました。同時通訳といっても、事前に日本語と英語の原稿を頂いて日本語の発表に合わせて英語をいうので、そんなに難しいとは思っていませんでした。実はそれが間違いだったとあとになって気がつきました。
 大島講師は、日本の仏教の例として、両方とも曹洞宗の大本山である永平寺と総持寺についての発表を行いました。永平寺が福井県の三方を山で囲まれた自然の中にあるのに対して、総持寺は神奈川県横浜市の鶴見という都会の中にあります。永平寺が、道元によって始められたときは、自然に囲まれた所に寺が建てられましたが、その中の弟子の一人が、民衆への布教を重視して別の寺を立て、今から約100年前に時代の要請に応じて都会の中に総持寺が建てられたのでした。
 
一方、生長の家は、時代の要請に応えて、本部を森の中に移すのです。

ところで、同時通訳をすることと、英語で講話を行なうことは、違うことだと気がつきました。つまり、同時通訳をすることと講話をすることは求められる能力が違います。なぜなら同時通訳は人が話すのを聞いてタイミングよく他の言語で話さなければなりませんが、講話をすることは、自分が自分の言葉で話すからです。
 カナダに赴任しましてまもなく1年になりますが、その間多くのことを学ばせて頂きました。これも、皆さんが暖かい気持ちでご協力下さったから任務を遂行することが出来たと思っております。そこで、自分自身もっと自分の能力を開発しなければいけないと思っている次第です。
 さて、谷口雅春先生は、『生活の智慧365章』において、「事業の成否は『人』に」と題して次のように書いておられます。

 その事業が成功するか成功しないかはそれに従事する「人」如何によるのである。されど「人」とは如何なるものであるか。それは「これ位の能力」と限定されるべき者ではないのである。何故なら「人」は神の子であり、その内には「無限」が宿っているからである。されば、その事業の成否は、「無限」が宿っているところの人間から、どれだけの量と質とをその「無限」から引出し得るか否かによって定まるのである。より多く引出し得た者は、その事業により多く成功するであろうし、より少く引出した者は少ししか成功しないであろう。
 多くの事業会社の従業員は自己の持っている能力や天分の十分の一すらも完全に発揮し得ないような仕組みになっているのである。それはただ上司の命令を機械的に「事務する」だけであって、創意を出すべき機会を与えられていないからである。機会と責任とを与えるときのみ能力は発揮される。
                                        (『生活の智慧365章』pp. 244-245

 このように、私たちの人類光明化運動・国際平和信仰運動の成否の鍵を握っているのは、私達自身ですので、一人一人が自分の持てる能力を開発して参りましょう。

 2013722

生長の家トロント教区教化部長
                カナダ国駐在本部講師
                 高 義晴

日本語ブログ:  http://yoshiharutaka2.blogspot.ca/


Thursday, June 20, 2013

真理を生活に実践することの大切さ.

私は、今この記事を6月17日のトロントからバンクーバーに向かう飛行機の中で書いています。トロント発午後5時の飛行機に搭乗予定でしたが、その日の午前中のトロント会館でのエアコンのメンテナンスの人とアポイントメントが予想以上に時間がかかり、さらに出発の45分前にチェックインが出来なかったので、結局6時の飛行機に搭乗しました。トロントとバンクーバー間で一時間おきに飛行機が飛んでいたことに感謝しました。現象生活は時に予定外のことが起きますが、このことを通して物事の光明面をみる機会を頂き感謝しております。
6月17日といえば、谷口雅春大師が28年前のこの日にお亡くなりになられました。日本では生長の家の長崎総本山始め各地で谷口雅春大聖師の28年祭が執り行われました。カナダのトロントとバンクーバーでは1日早い6月16日の日曜日に執り行われました。トロントでは10名の参加者があり、バンクーバーでは約25名の参加者があったと聞いております。私はトロントで年祭の先導と講話を行なう予定でしたので、バンクーバーのみなさん宛には前日の6月15日にトロント会館でビデオメッセージを収録し上映していただきました。このビデオメッセージは私のYoutube Channel でご覧いただけます。http://www.youtube.com/user/alohamahaloyoshi
そのビデオメッセージの中で私は、谷口雅春先生が谷口清超先生にお会いになられたときに、戦争に行ったかどうか聞かれ、行かれなかったと清超先生が言われたところ、雅春先生が「人を殺さなくて良かった」と言われことを紹介させて頂きました。また昭和60年5月の最後の講話でも「殺す勿れ」の最高道徳に導いて欲しいと説かれたことを紹介致しました。
さて、6月15日(土)トロント教区で15年以上ぶりに日本語による一日見真会が開催され10名の参加者がありました。また、トロントでは5月にも英語の見真会が開催され7名の参加者(うち2名が初参加者)があり、今年になって2回目の見真会が開催されたことになります。8月には2回目の日本語の見真会が予定されております。また、今月6月22日には、バンクーバーにおいても日本語の一日見真会が開催されます。このバンクーバーでの見真会は、朝7時の早朝行事から午後5時まで充実した内容の行事が組まれています。これからもできる限り見真会が開催したいと思っております。
もちろん、日曜日のサンデーサービスをはじめとする行事では、できるだけ新人に配慮した形で開催した方がよいと思いますが、土曜日などの他の日にはもっと深く生長の家の御教え学びたい人のために見真会等の行事が多く開催できれはよいと思っております。なぜなら、生長の家の会館は単なる会館ではなく、「いのちのゆには」と呼ばれ、神の子の実相を現し出す大切な場だからです。ですから、生長の家の会館で見真会や練成会が開催してともに真理を学び実践することが本来の「いのちのゆには」の目的を満たすこととなります。
また、見真会や練成会では、みなさんと一緒に食事をして、そのあと一緒に食器を洗います。これが、また素晴らしいのです。練成会では、講師、参加者問わずに一緒になって、感謝行や、祈り合いの神想観、浄心行などの「宗教行」を行います。こうしてみ教えを一緒に行じる中で、一人ではなかなか悟れなかったことが、分かるようになってきます。
生長の家では、現在、地球環境問題に取り組んでおりますが、これも人間神の子の真理を知った私たちの生活実践に他ならないのです。総裁谷口雅宣先生は、『今こそ自然から学ぼう』の中で、ある信徒のT氏からもらったemailを紹介されながら、T氏が環境問題についての話よりももっと真理の話をして欲しいと要望されたことに対して、谷口雅春先生のご文章を引用されながら次のように書いておられます。

T氏はメールの中で、環境問題や遺伝子問題のことを「所詮現象世界のことです」と言っているが、我々が毎日生活している現象世界で信仰が生かされないのならば、宗教の意味はほとんどない。禅宗第一の書と言われる『無門関』の第七則にある「趙州洗」の公案では、そのことがかれているのである。生長の家創始省、谷口雅春先生の解を以下に引用させていただこう:

或る日のこと新の僧が趙州和尚の前にて、そして「悟りについてのお教えを願いたい」と申し上げましたら、州和尚は「お粥をお前食べたかい」と被仰った。「食べました」とお答えしたら、「孟を洗ってい」と言われた。「孟」とは食器です。必ずしも丼のことじゃない。食です。「食器を洗い去れ」とこう言われたので、初めて「僧は省あり」と云うわけで、本にまだ悟ったという程のことじゃないが、その僧はまだ食べたあとの食も洗っていなかったのでしょう。だから省みるところがあったと云うのであります。 
(谷口雅春著『日常生活の中の真理 無門関・聖書篇』日本教文社刊、89)

 そして、谷口雅宣先生は、谷口雅春先生の御文章の次の部分を引用されて、実相を知りそれを現象に生きることの大切さを述べておられます。
 まずは、谷口雅春先生の御文章を引用されている部分の一部を書かせて頂きます。

 燈は火であると云うことを知らなければならない。「燈は燈で、火は火だ」などと、燈と火とを分けて考えたら駄目である。燈は火の用です。火は燈の「本体」であり、燈は火の「現象」であります。(略)何でもないようだけれども、「悟った、悟った」と言いながら、日常生活にその悟りが現れなかったら、それは炎のない火のようなものであって燈としては役に立たぬわけであります。
(谷口雅春著『日常生活の中の真理 無門関・聖書篇』日本教文社刊、11)

 谷口雅宣先生は、上記の雅春先生の御文章を引用されたあとで次のように述べておられます。

 日常生活に属するような現象的なことは世間の常識に任せておいて、宗教家は「神」や「仏」などもっと高尚なことを説かねばならないというのは、一つの考えである。しかし、これは「燈は火と違うから、もっと火の話をせよ」と言うのと同じである。「火」を抽象的に理解していても、日常生活で「燈」一つ使うことができなかったら、それは「火」を本当に理解していることにはならない。食後に食器一つ洗うことができない者が、「食べ物には仏の命が宿っている」などど講釈しても、誰がそれを信じるだろう。
  (『今こそ自然から学ぼう』)

 最近、会館でご用意頂く食事について環境に配慮して肉料理をあまり出さないようにして下さり心から感謝申し上げます。これも、「人間神の子の真理の生活実践」であり「『殺す勿れ』の生活実践」でもあります。肉を食べることで環境破壊が進むことが分かった以上、会館の行事でなるべく肉を出さないようにしていただくことが、「火」の本来の意味を知って「燈」を使うことなのです。
 なお、今月のニューズレターには、カナダ国内の本年と来年の運動方針が掲載されておりますが、この運動方針も具体的にこの現象世界にどうやって光明化運動を展開していくのかについて書かれておりますので、ご熟読ください。
では日頃の皆様のご協力に感謝してこの記事を終わらせて頂きます。

 ありがとうございます。

2013年6月17
トロント教区教化部長
カナダ国駐在本部講師

 高 義晴 拝